フラウト・トラヴェルソについて
フルート(横笛)は時代とともに形や材質などが変化してきたので、時代順に「ルネサンス・フルート」「バロック・フルート」「クラシカル(古典派の)・フルート 」「モダン(現代)・フルート」と呼んで区別しています。しかし、バロック・フル ートに対しては、当時のイタリア語の名前である「フラウト・トラヴェルソ」あるい は略して「トラヴェルソ」という言葉がよく使われます。フランス語ではFlute Traversiere、英語では Transverse Flute. ドイツでもフランス語かイタリア語の名前で呼ばれていました。トラヴェルソとは「横に構える」と言う意味で、当時一般的にフルートといえば、縦に構えるフルート、つまりリコーダーの事を指しましたので、このリコーダーに対比してつけられた名前です。
フラウト・トラヴェルソは、つげ、黒檀などの堅い木で作られておりフルートが木管楽器であることが良く分かります。構造的には、歌口の他、右手の小指で押さえるキーを1つ持つ以外は、指でふさぐ穴が6つ空いているだけのシンプルな作りとなっています。木製で管の内部構造も少し異なる(現代フルートは、先に向かって広がっている、フラウトトラヴェルソは、先に向かってつぼまっている)ため、現代のフルートに比べ他の楽器とよく溶け合う響きを持っています。材質としては、堅い(比重の高い)木の方が力強い音が出ますので、つげが柔らかく、黒檀やグラナディラといった黒い重い木のほうが、ずっしりした音が出ます。また、当時最高の材質として貴族などに歓迎されたのが象牙です。現在では入手困難な材料ですが、木に比べて高い比重を持っていると同時に、精密な加工ができるので、繊細さと力強さを併せ持った楽器ができます。演奏は、材質に対抗するだけの息を正しく保つ必要があり、ごまかしが効かないのと、重たいので、なかなか難しいと思います。(当時の楽器で、陶器やガラス製の楽器も残っていますが、木や象牙のように材質に方向性(目)がないためでしょうか、演奏にはあまり適さないようです。)
また、シャープやフラットのついた音は、いくつかの指穴を交差してふさいで(クロスフィンガリング)、息の当て方(アンブシュア)を加減して音程を作るので、ナチュラルの音に比べて、くぐもった音色になります。現在のフルートは、全ての音を、統一された指使い、同じ吹き方で出せ、均一な音色で、適切な音程を保つように作られていますので、現代フルートに慣れた演奏者には、大変難しい楽器に感じると思います。また、現代フルートより小さな歌口や低音のオクターブの音の作り方の違いなども、乗り越える必要があります。
この事で、調性や音により、響きが変わることになりますが、これが当時の趣味と合致していたわけです※1。バロック時代も、指の届かないファゴットなどでは、キーを付けていましたので、必ずしも技術がなかったとは言えず、もっぱら趣味の問題だと考えられます。(吹いていて、そう実感しています)
※1 クラシックの時代になると、趣味が変わり、全ての音が均一に、明るく響くことが好まれるようになり、シャープやフラットのついた音に対応して穴を開け、それをふさぐために(指が足りないので)キーが増えていくわけです。 例えば、モーツアルトの音楽は、バロック時代の音楽ではなく、新しい趣味に移っていますので、トラヴェルソでは応えられない部分もあります。(長年トラヴェルソばかりを吹いている筆者の経験では、クラシカルフルートを手にモーツアルトを吹くと、「そうそうこの音が欲しかったんだ!」と非常に新鮮・前衛的に感じます。)モーツアルトは、フルートのことを父レオポルトに「あなたもご存知のように耐え難い楽器のために書かなければならないと僕の筆も進みません」と酷評を送っていますが、どうも依頼されていたフルート曲の作曲遅れの言い訳だったようで、本当のところはフルート嫌いでなく、17歳の歌手アロイージア・ヴェーバーとの恋愛に夢中だったことを隠すためだったと考えられています。事実、フルート協奏曲や四重奏曲は現代フルート奏者にとっても大事なレパートリーですし、シンフォニーやオペラでのフルートの使い方も見事なものがあります。
音域は、1点ニから3点イ音までの、ほぼ全ての半音を出す事ができますが、初期の曲では、3点ホ音より高い音は安定しないので、滅多に使われません。現代のフルートは、1点ハ音から、4点ハ音までのすべての半音をほぼ均一に出せるようになっています。
この楽器は、17世紀の終わりに、フランスの楽器製作・演奏家のオトテールが、改良し、独奏楽器としての機能を確立したあとは、表現力を拡大したことや、フランスやドイツの名人が輩出したこともあり、貴族や愛好家の間で広く使用されるようになり、その後の(モーツアルトなど)古典派時代にはフルートと言えば横笛を指すようにまでなりました。
オトテール(フランス 1720年ごろ)作のフラウトトラヴェルソ(コピー) 黒檀材
ロッテンブルク(ベルギー 1700年代前半)作のフラウトトラヴェルソ(コピー) 象牙材
このフラウト・トラヴェルソの起源はどうだったのでしょうか?
バロック時代最大のフルート名手の1人で作曲家、プロイセンのフリードリッヒ大王の教師であったクヴァンツは、「フラウト・トラヴェルソの演奏試論(1752)」のなかで(バロック)フルートの起源について以下のように述べています。
「1620年にミカエルプレトリウスが….本を出版し、キーのついていない横笛をQuerfloete(横のフルート)と呼んだ。….この楽器に最初にキーをつけることで便利にしたのはフランス人である。この改良が行なわれた本当の時期や創始者が誰であったかは定かで無い。...おそらく100年も前のことでは無いだろう。(この本の出版は1752年)...(日本フルートクラブ訳。カッコ内は曽禰補足)」
ここでいうフラウト・トラヴェルソは現在のフルートとほぼ同じ音域をもつ楽器です。フラウト・トラヴェルソは、ヴァイオリンやリコーダー、オーボエ属とは違い、バロック時代を通じて(そしてその後の時代も)小型や大型の楽器で高音から低音までカバーする楽器ファミリーは普及しませんでした。クヴァンツも同じ著書で
「普通の横型フルートの他に種々のフルートがある。Quarte Floete(4度フルート)、Floeten damour(フルート・ダモーレ)Kleine Floete(小フルート)などである。普通のフルートに比べて、最初のものは4度、2番目のものは短3度低い。最後のものは4度高い。これらのうちではFloeten damour(フルートダモーレ)がもっともよかった。しかしこれら全ては、純粋さ、美しさと言う点で普通のフルートに及ばなかった。(日本フルートクラブ訳。カッコ内は曽禰補足)」
と述べています。おそらく発音の仕組みから、小型や大型の楽器には向かないのだろうと思います。当時は、オーケストラでピッコロが使用された以外、アンサンブルとしては、もっぱらD管のフラウトトラヴェルソが用いられました。現代のフルートでも小型(ピッコロ)、やや大型(アルトやバスフルート)もあり、アンサンブルも出来ますが、あまり一般的でありません。
以下、バロック時代の、フラウトトラヴェルソの変遷とお国ぶり、関係した作曲家について順番に説明します。
1600年代の終わり頃に、それまで円筒形の構造を持った1本の木に6つの指孔をもつルネサンス・フルートを、構造を歌口からフルートの先に向かって徐々に細くなる逆円錐形に変え、右手小指キーをつける形にし、全体を3つの部分に分割※2できるように、フランスの楽器製作者オトテール一族により改良(?!)されたのが、バロック時代のフルートの始まりと考えられています。(最近ではオランダの製作者が改良したという説もあります。)この変化により、当時の音楽を自由に演奏できる能力と、より輝かしい音色を獲得し、バロック時代には一躍独奏楽器の仲間に加わりました。
※2 オトテールのフルートは、3つの部分に分解し、持ち運びができます。写真のように歌口のある頭部管、指穴のある中部管、キーのついている足部管からなります。つなぎ目は、糸が巻いてあります。また外側のつなぎ目は装飾目的も兼ね、割れないように象牙で補強してあります。(他の楽器との音程の調節は、頭部管・中部管の間で行います。)
1680年頃にフランスの作曲家リュリが、オペラ・バレーの中でフルートを起用したのが、記録に残っているバロック・フルートのデビューであり、当時のフランスでは、急速に流行してきた楽器と思われます。当時のフランスでは、舞曲を中心に器楽曲が発達し、舞曲を中心にいくつかの曲を集めた「組曲」がたくさん作られました。また、人の声を模倣し、語りかけるような音楽が理想とされており、楽譜では同じように書かれている音符を、アクセントをつけたり、震わせたり、強弱・長短を引き分けたりすることが当時の教則本でも説明されています。 オトテールの曲では、良い音悪い音の区別、フィンガービブラート(今のビブラートと違って指で音を震わせる)、一連の8分音符や16分音符を「長い短い」の組み合わせで演奏するタンギング(舌使い)などが盛りこまれており、踊りの曲をいわばスイングして演奏するような音楽作りになります。 また、この当時のフルートは、一オクターブ目の、ラの音のピッチが392HZくらいに作られていて、今のフルートに比べると1全音低い調子になります。フランスでは、フルートが大変流行し、また、名人も輩出しました。後にドイツのドレスデンの宮殿に仕えることになり、バッハと親交を持ち影響を与えたといわれるビュッファルダン、名人芸でヨーロッパ中に名声をはせたブラヴェなどの演奏家兼作曲家もオトテールの後に続きフランスのフルート隆盛の時代を作りました。
オトテールの様な最初の3本管のフラウト・トラヴェルソが発明(?)されてから、約半世紀後の1720-30頃に、フルートは4本管が中心になりました。同時に内径も少し変わることにより、高い音がより出しやすくなり、以前は弱い音しか出なかった半音がよりはっきり出せるように変化してきました。4本継ぎのフルートでは、上から2番目の中部管の長さを少しずつ変えて何本も用意することで、392HZ位〜430HZ位までのたくさんのピッチに対応できるようにもなったため、(調律が自由なチェンバロや弦楽器奏者と同じように)名演奏家が地方都市を渡り歩き演奏することもできるようになり、ヨーロッパ中の音楽での使用頻度が増加しました。今日では4本継ぎのフラウト・トラヴェルソは、現在のピッチより約半音低いラの音が415HZで演奏されることが多いですが、必ずしも当時の標準があったわけではありません。
クヴァンツ(ドイツ 18世紀中ごろ)作のフラウトトラヴェルソ(4分割できる構成で、たくさんの替管がついている)
このように4管構成となったフラウト・トラヴェルソは、バロック時代の後期を中心に広くヨーロッパ中で使われました。
発祥の地であるフランスでは、オトテール、ブラヴェの他に、台頭してきたアマチュア音楽家も対象に、ノード、コレットなどの作曲家が、中庸な曲も数多く出版しました。また、多作家で知られるボアモルティエは、1本、2本、3本や5本(!)のトラヴェルソだけで演奏する曲まで出版し、需要に応えました。製作者では、ロット、ベルギーのロッテンブルクなどが有名です。
イギリスでは、リコーダーの製作者として有名なブレッサン、ステンズビー一族もトラヴェルソの名器を製造しはじめ、ロンドンを中心にプロ、アマチュア貴族の演奏家への楽器供給を始めました。音楽も、フルート用の曲だけでなく、ヴァイオリンやその他の楽器のための編曲が「種々の楽器のために」と称して(海賊出版を多く含んで)出版されました。ヘンデルの有名なソナタ集の多くのフルート曲はもともとヴァイオリンやオーボエのために作曲されたもののようです。
ステンズビージュニア(イギリス 1740年ごろ)作のフラウトトラヴェルソ(コピー)
イタリアは、歌とヴァイオリンの国であり、リコーダーやフルートは比較的マイナーな存在であったかもしれません(ヴァイオリンはストラディバリなどで有名なイタリアですが、トラヴェルソ製作者で有名な人はあまり知られていません。)。そんな中で、有名な「四季」の作曲者で、赤毛の司祭として知られるヴィヴァルディは、養育院の貧しい少女を集めたコンサートを主催し、その演奏の素晴らしさと少女達の愛らしさは、当時の旅行記録に残っているほどです。ヴィヴァルディは、バロック協奏曲の創始者としてヨーロッパ中に影響を与えましたが、フルート、ヴァイオリンなどからなる、フルートと他の楽器との室内協奏曲を多く残しているほか、ヨーロッパ中の需要に応えてフルート協奏曲(作品10)を世界で初めて出版したことでも有名です。
さて、ドイツでは、宮廷での音楽に加えて、商業で栄えた都市(たとえばハンブルグ)の富裕な商人層で、楽器演奏を楽しむ習慣も芽生えてきました。ここでは、フランス風の趣味と、イタリアの趣味を融合し、ドイツや東ヨーロッパの民族音楽の要素も組み込んだ、いわゆる「趣味の融合」が行なわれました。特に有名なのは、ハンブルグの音楽監督をつとめ、当時ヨーロッパ中に知られる流行作曲家であったテレマンでしょう。フルートに関しては、無伴奏の幻想曲、カノン(輪唱形式の)2重奏などのフルートだけの曲から、トリオ(三重奏)ソナタ、四重奏曲から協奏曲、管弦楽組曲まで残しており、現代のトラヴェルソ奏者の貴重なレパートリーを提供しています。 特に、テレマンがパリに招聘された折に作曲した、フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ(またはチェロ)と通奏低音のための四重奏曲は、「パリ四重奏曲」として有名です。
各国の趣味の融合と、深い作曲技法、妥協の無い曲作りで、当時よりも後世にひときわ高い評価を与えられている大バッハ(ヨハン・セバスチャン・バッハ)も1720年くらいからフルートをたくさんの場面で使いました。最初の曲と考えられているのが、有名なブランデンブルク協奏曲第5番で、チェンバロ、ヴァイオリンと共に、ソリストの地位を与えられています。その後、バッハは、ケーテン時代の終わりから、ライプチッヒに移ってからもフルートに高い技術性を要求しています。1720年ごろに作曲された最初の室内楽曲 無伴奏フルート組曲(パルティータ)は、音の跳躍が多く、また、当時のフルートの最低音から最高音までを使いきった難曲で、ピアノでいえば左端の鍵盤から右端の鍵盤まで使いきる感じとなります。現代の楽器ではもっと広い音域が出ますが、フラウト・トラヴェルソで演奏すると、楽器の限界に挑むスリリングな感覚が味わえます。また、1730年代の後半には管弦楽組曲2番を作曲し、跳躍と超スピードを披露するバディネリ(冗談の意味)を組曲の最後に添えています。また、晩年の1747年には自分の息子の仕えているプロイセンの王様 フリ-ドリッヒ大王(フルートの愛好家で名人クヴァンツ(前述)の弟子)の宮殿まで出向き、対位法や即興演奏の名人芸を披露しましたが、このフルート好きの王様に、フルート曲を多く含んだ曲集「音楽の捧げもの」を献呈しました。
なお、ドイツでは、デンナー、アイヘントップなどの名人がフルートを作り、テレマンやバッハの演奏に供する楽器を提供していたはずです。その後、ドレスデンのアウグスト・グレンザーが、大変完成度の高い楽器を世に送り出し、その工房が高い品質の名器を多く生み出したこともあり、現在でも多くの楽器が保存されています。ちなみにこのグレンザーの甥で、工房の後継ぎになったハインリッヒ・グレンザーは、1キーのバロック・フルートだけでなく、後年は4キー、6キー、8キーといったキーの多くついた古典派の時代に用いられたクラシカル・フルートの製作者としても有名です。
アウグスト・グレンザー(ドイツ 18世紀後半)作のフラウトトラヴェルソ(コピー) つげ材
このように円熟したバロック音楽は、バッハの亡くなった1750年頃を境に、市民の台頭が進み1789年のフランス革命に代表される新しい時代に向かって、その時代精神と音楽表現は大きく変化しました。バロック時代の音楽技法(複数の旋律がからみあう対位法、低音が曲を引っ張り、和声をリードする通奏低音、語るような演奏方法など)を、いったん清算し、単純で歌うような旋律、段階的な強弱の対比でなく感情の連続的な変化を求める方向に変化しました。また、演奏場所も教会や王侯貴族の広間から、もっと広い劇場などに変化し、オーケストラのような大編成も始まります。つまり、ハイドン、モーツアルトを経てベートーベンへつながる古典派の時代に入っていくわけです。 楽器もこの要求に応えて変化が起こります。フルートは、バロック時代のフラウト・トラヴェルソから、半音が均一に出るように変化した多鍵フルートが、多く用いられるようになります。
H. グレンザー(ドイツ 1800年ごろ)作の8鍵クラシカル・フルート(コピー) 黒檀材