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107th Concert

  

アンサンブル山手バロッコ第107回演奏会
 
バッハ・珠玉のカンタータ   

哀しみのうた〜永遠の光へ〜

Bach Cantata : “sorrow and eternal light” 

横浜開港記念コンサート   “洋館で親しむバロック音楽”第116

2022417日(日) 14時開演(1330分開場)神奈川県民ホール・小ホール
14:00
 17th April. 2022 at Kanagawa Kemnin Hall/small hall

主催:クラングレーデ事務局 

運営協力:アンサンブル山手バロッコ https://yamatebarocco.sakura.ne.jp
協賛: 横浜市中区役所

出演

 

加藤 詩菜(ソプラノ)

フェリス女学院大学音楽学部演奏学科卒業。洗足学園音楽大学大学院音楽研究科修了。ウィーン国立音楽大学WienerMusikseminarディプロマ修了。第15回日本演奏家コンクール声楽部門「奨励賞」「協会賞」受賞。座間歌曲祭2018 2回日本歌曲コンクール入選。川上勝功、平松英子、ウー ヴェ・ハイルマンの各氏に師事。横浜市民広間演奏会会員。洗足学園音楽大学ミュージカルコース助手。https://www.katomusicschool.com/

 

曽禰 愛子(メゾソプラノ)

鹿児島国際大学短期大学部音楽科、同専攻科卒業。洗足学園音楽大学大学院 音楽研究科修了。第32回国際古楽コンクール〈山梨〉ファイナリスト。スイス・バーゼル・スコラ・カントルムにてBachelor及びMasterを修了。幅広い時代の作品をレパートリーとし、ソリストおよび声楽アンサンブルメンバーとして活動しており、ヨーロッパ各地でのコンサートに参加。声楽を川上勝功、ウーヴェ・ハイルマン、ゲルト・テュルク、ローザ・ドミンゲスの各氏に師事。

 

大野 彰展(テノール)

愛知県生まれ。愛知県立明和高等学校音楽科を経て、国立音楽大学音楽学部、及び同大学院修了。テノール歌手、ゲルト・テュルク氏の推薦によりスイス・バーゼル・スコラ・カントルムへ学内奨学金を得て入学。バロック時代の音楽はもとより、中世・ルネッサンス期の音楽から現代曲に至るまで深く幅広い知識と経験を積み、ヨーロッパ各地でソロ・アンサンブルを問わず活動している。Ensemble La PedrinaDomus Artis Ensemble各メンバー。 第30回国際古楽コンクール〈山梨〉声楽部門最高位、Biagio Marini Wettbewerb 第ニ位(Domus Artis)

 

杉山 範雄(バリトン)

10 歳より小田原少年少女合唱隊に入隊、ルネサンス〜現代まで多くのアカペラ・アンサンブルを学ぶ。平成 6 年東京藝術大学音楽学部声楽科に入学、声楽を多田羅迪夫、桑原妙子の両氏に師事。卒業後、これまでに小林研一郎、小泉ひろし、飯森範親等各指揮者のもと、演奏会バスソリストを務める。現在、神奈川を中心に14の合唱団を指導、学生・児童の歌唱指導にも取り組んでいる。神奈川県合唱連盟副理事長

 

山本 勉(リコーダー)

独学でリコーダーを習得。慶應バロックアンサンブルで演奏。カメラータ・ムジカーレ同人、アンサンブル・オードブル同人。アンサンブル山手バロッコメンバー。

 

清野 由紀子(リコーダー、フラウト・トラヴェルソ)

昭和音楽大学管弦打楽器科卒。卒業後は音楽出版社勤務の傍ら研鑽を続け、モダンフルートを岩花秀文氏、フラウト・トラヴェルソを中村忠の各氏に師事。バロックアンサンブル『ラ・クール・ミュジカル』主宰。アンサンブル山手バロッコメンバー。

 

曽禰 寛純(フラウト・トラヴェルソ)

フルート演奏を経て、フラウト・トラヴェルソを独学で習得、慶應バロックアンサンブルで演奏。1998年にリコーダーの朝岡聡と共に、アンサンブル山手バロッコを結成し、横浜山手の西洋館でのコンサートを継続。カメラータ・ムジカーレ同人。

 

大山 有里子(バロック・オーボエ、バロック・オーボエ・ダモーレ)

大阪教育大学音楽科卒、同専攻科修了。オーボエを大嶋彌氏に師事。卒業後「大阪コレギウム・ムジクム」のソロオーボエ奏者として数多くの演奏会に出演。その後ピリオド楽器による演奏に専念しアンサンブル「アルモニー・アンティーク」等に参加。近年はバロック時代だけでなく古典期のオーボエ曲のピリオド楽器による演奏にも取組み活発に活動している。201619年「バロック・オーボエの音楽」開催。「クラングレーデ」および「ダブルリーズ」メンバー。

 

石野 典嗣(バロック・オーボエ・ダモーレ、バロック・ファゴット)

バロック・オーボエ、バロック・ファゴットを独学で学ぶ。古楽器演奏家の追っかけと押しかけレッスン受講歴有り。現在、カメラータ・ムジカーレ同人、アンサンブル山手バロッコメンバー。

 

小野 萬里(バロック・ヴァイオリン) 

東京藝術大学ヴァイオリン科卒業。1973年ベルギーに渡り、バロック・ヴァイオリンをS. クイケンに師事、以来たゆみない演奏活動を展開している。現在、「チパンゴ・コンソート」、「ムジカ・レセルヴァータ」メンバー。 アンサンブル、sonore cordiを指導している。

  

伊藤 弘祥(バロック・ヴァイオリン)

慶應バロックアンサンブルでヴァイオリン、ヴィオラを演奏。また、同大学の日吉音楽学研究室主催の「古楽アカデミー」に、2010年より第一期生として参加し、バロック・ヴァイオリン、バロック・ヴィオラを演奏している。  

 

小川 有沙(バロック・ヴィオラ)

慶應バロックアンサンブルでヴィオラを演奏。卒業後、オーケストラ、室内楽の両面で活動している。アンサンブル山手バロッコメンバー。

  

坪田 一子(ヴィオラ・ダ・ガンバ)

国立音楽大学楽理学科卒業。在学中よりヴィオラ・ダ・ガンバを神戸愉樹美氏に師事。ベルギーでヴィーラント・クイケン氏、ポルトガルでパオロ・パンドルフォ氏のマスタークラスに参加。ヨーロッパの中世からルネサンス・バロック音楽まで、アンサンブルを中心に演奏活動をしている。上野学園中学校・高等学校、国立音楽大学非常勤講師。

 

角田 幹夫(ヴィオラ・ダ・ガンバ)

慶應バロックアンサンブルでヴァイオリンを演奏。独学でヴィオラ・ダ・ガンバを習得。現在、カメラータ・ムジカーレ同人、NHKフレンドシップ管弦楽団団員。アンサンブル山手バロッコ発足メンバー。 

 

黒滝 泰道(バロック・チェロ)

矢島富雄、三木敬之、山崎伸子各氏の指導を受ける。慶應バロックアンサンブルOB。弦楽合奏団、古楽アンサンブルなどで活動。ザロモン室内管弦楽団メンバー。

  

飯塚 正己(コントラバス)

学生時代よりコントラバスを桑田文三氏に師事。卒業後河内秀夫、飯田啓典、大黒屋宏昌の各氏より指導を受け演奏を続けている。アンサンブル山手バロッコメンバー。

 

瀧井 レオナルド(テオルボ)

サンパウロ州立大学クラシックギター科卒業。バーゼル・スコラ・カントルムで名手ホプキンソン・スミス氏のもとリュートを学び、学士・修士号を取得。欧州、ブラジル各地や日本国内でソロコンサートを開催。つのだたかしや波多野睦美とのデュオで好評を博す他、通奏低音にも長け、R.ヤコブス、R.アレッサンドリーニ等著名な音楽家のアンサンブルで多数演奏。佐藤裕希恵とのデュオ《ヴォクス・ポエティカ》のCD『テオルボと描く肖像』はレコード芸術特選盤に選出。

 

和田 章(チェンバロ) 

小林道夫氏にチェンバロを師事。慶應バロックアンサンブルで演奏。カメラータ・ムジカーレ同人。アンサンブル山手バロッコ発足メンバー。

 


 

アンサンブル山手バロッコ第107回演奏会
 
バッハ・珠玉のカンタータ   

哀しみのうた〜永遠の光へ〜

Bach Cantata : “sorrow and eternal light” 

横浜開港記念コンサート   “洋館で親しむバロック音楽”第116

 

 

 

プログラムノート

(曽禰寛純)

 

本日は横浜開港記念コンサート「バッハ・珠玉のカンタータ  哀しみのうた〜永遠の光へ〜」へお越しいただき、有難うございます。 2009年に横浜開港150周年の記念行事としてスタートした開港記念コンサート、 今回は県民ホール小ホールに会場を移し、バッハのカンタータをお届けします。

 このプログラムは、2年にわたる厳しい環境でたくさんの苦労をされていらっしゃる方や悲しい別れをされた方にも届く企画をという思いで、哀しみのカンタータというテーマで検討を始め、バッハの曲は哀しみだけでなく救いと生きることを歌っているので、「哀しみのうた〜永遠の光へ〜 」をテーマとし、歌手のみなさまや器楽のみなさまにも協力いただき、3曲の素晴らしいカンタータの企画が出来上がりました。本日は「永遠の光」を味わうひと時をご一緒いたしましょう。

 

♪  ♪  ♪

バッハとカンタータ

ヨハン・セバスティアン・バッハは、1685年にドイツのアイゼナッハで音楽一族の家系に生まれ、その一生をドイツの国内で送りました。音楽家のスタートは宮廷楽団員でしたが、その後、アルンシュタット、ミュールハウゼンの教会オルガニストとしてその経歴を積み、ヴァイマルの宮廷楽長に就任し、ヴァイマル宮廷のエルンスト公の求めに応じて、イタリアの作曲家の協奏曲を鍵盤楽器のために編曲ながらイタリア音楽を学びました。また、宮廷礼拝堂のために教会カンタータを本格的に作曲し始めました。その後、ケーテンの宮廷楽長に就任しました。音楽好きのお殿様レオポルト公の元で、独奏曲、室内楽や協奏曲の名曲が数々生み出されました。一方でケーテンは教会での音楽を制限しているカルヴァン派に属していましたので、教会カンタータの作曲はこの時期中断しました。

1723年には、商業都市ライプチッヒの音楽監督でトーマス教会学校の校長であるトーマスカントルに就任しました。就任直後から、毎週の礼拝で演奏される教会カンタータの作曲・演奏に精力的に取り組みました。バッハの教会カンタータは現在200曲弱が残されていますが、その多くがライプチッヒ就任直後の数年で作曲されたものです。また、1729年には、ライプチッヒ大学の音楽愛好家を中心とした市民のための演奏団体コレギウム・ムジクムの指揮者に就任し、10年以上の活動を通じて「ライプチッヒにコレギウム・ムジクムあり」というほどのコンサートに育て上げました。ここでは、バッハ独奏によるチェンバロ協奏曲をはじめとした器楽曲や音楽劇(ドラマ・ペル・ムジカ)と名付けられた世俗カンタータが数多く演奏されました。この世俗カンタータには、ライプチッヒを監督していたザクセン選帝侯への表敬・祝祭音楽も多く含まれています。1750年に亡くなるまで、教会カンタータや世俗カンタータの作曲・再演や器楽曲の作曲活動をこのライプチッヒで続け、音楽とともにある生涯を過ごしました。

 

 

J.S.バッハ
 J.S.Bach (1685-1750)

カンタータ 第106番 「神の時こそいと良き時」 BWV106
Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit.
 

 

 

 

現代に残された唯一の筆写譜にActus Tragicsと書かれていることから「哀悼行事」という名前でも知られている曲です。1707年もしくは1708年のバッハのミュールハウゼン時代に作曲された最初期のカンタータと考えられています。作曲演奏の機会は、母方の伯父トビアス・レンメルヒルトの葬儀の際というのが定説になっていますが、18世紀後半の筆写譜のみが現代に伝わっているため、初演の確かなことは分かっていません。この説の真偽はともかく、22歳ころに作曲されたこのカンタータは、初期の様式を示しながらも若き天才の名作として知られています。

 

曲は、切れ目なく演奏される4つの部分からなっていて、地上の生から死の世界へ展開し、人の人生のはかなさ、死すべき定めを嘆くなかで、やすらかな思いでイエス・キリストにすべてを委ねることこそ天国の安寧への道と説き、神の栄光をたたえ、アーメンで曲が完結する構成になっています。次に3つの部分を順に見てみましょう。

最初の部分は、死・哀悼と関連付けられる楽器であるリコーダーとヴィオラ・ダ・ガンバを2本ずつ使った器楽の導入曲(ソナティナ)が緩やかな足取りで、たくさんの象徴を伴って、静かに死の世界を描き始めます。

2番目の部分では、リコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバ、通奏低音からなる器楽と4人の声楽とで「神の時こそいと良き時・・」と歌い始めます。引き続き、テノールが嘆きを歌い、

次にリコーダーを伴ってバスが死すべき定めであることを厳しく告げます。
すべての器楽を伴い、アルト以下の3人が、死ぬ定めをうたい、ソプラノが、死を受け入れる「主イエスよ来てください」と定めを受け入れイエスに呼びかける、神にゆだねる澄み切った声が続き2番目の部分は終了します。

3番目の部分では、安らかな思いで神にゆだねる魂(アルト)の呼びかけに対してイエス(バス)が天国へ誘います。アルトはシメオンにちなんだコラールを歌い穏やかな安らぎの気分を作り出します。

最後の4番目の部分では、神の栄光が賛美され、器楽もその賛美に参加して活躍し、二重フーガを経てアーメンのエコーで曲が閉じます。

 

演奏上は残されている筆写スコアでは楽器の音域を超えて記譜されているのをどう処理するか、当時の2つ存在したピッチ(コーアトーンとカンマ―トーン)のいずれのピッチで演奏するかなど種々議論されています。わたしたちはライプチッヒでの演奏(再演)を想定して、新バッハ全集のヘ長調版をカンマ―トーンのピッチ、コントラバスを含む構成で演奏いたします。

 

J.S.バッハ
 J.S.Bach (1685-1750)

カンタータ 第55番 「われ貧しき者、われは罪のしもべ」 BWV55
Ich armer Mensch, ich Sündenknecht
 

この曲はBWV106の作曲から20年ほどたった1726年に作曲されたソロカンタータの一つで、現代に残されたバッハ唯一のテノール独唱のカンタータです。11月17日(三位一体後第22主日)に演奏された曲で、現在までバッハ自筆のスコアと初演時のパート譜が残されていて、作曲のプロセスが判明しています。全体は5つの部分(曲)からなりますが、そのうち、第1曲、第2曲は、この機会に新たに作曲された曲、第3〜第5曲の3曲は旧作を利用したものです。旧作の由来については、失われたワイマール時代の受難曲からの転用や受難カンタータからの転用ではないかと考えられていますが、歌詞の構成も、この演奏機会に合致していますので、転用にあたって改作・推敲されたのではないかと思います。(バッハは通常スコアを作成し、パート譜をコピーし、リハーサル以降で細かい指示や推敲される内容はパート譜に反映されることが多いのですが、第3曲アリアでは、この手順とは逆にパート譜よりもスコアのほうが細かい指示や修正がされていることも、旧作の転用の根拠とされています。)       

 

 それはともかく、このカンタータは、この日の礼拝で引用される「ご主人様に借金を免除してもらっているにも関わらす、自分への借金返済をしなかった仲間を告発した下僕」の逸話と「この下僕は主人の怒りに触れ投獄されたように、隣人を赦さないものは罰せられるだろう」という教訓と合致した歌詞を持っています。

1曲のアリアの器楽リトルネロが罪深さの気分を作り出し、わたしは貧しい人間で罪のしもべであるというテノールの歌い出しで、それは自分であるという信者の認識を定めるところからスタートします。出だしから甘美でギャラントな楽器であるフルートとオーボエ(ダ・モーレとバッハ記載)が、3度や6度で並行して動く2声を構成し、ヴィオラを欠いた弦楽の第1、第2ヴァイオリンも3度や6度で並行して動く2声を加え、対位法的に絡みます。そして、テノールのソロがもう1声部として加わり、通奏低音の上の、5声部のポリフォニーの動き、36度のハーモニー、ナポリの6度や嘆きの音型が散りばめられています。続く、第2曲レチタティーヴォは、第1曲の内容を受け、逃げ場のない神の裁きへの恐れが、通奏低音の伴奏で語られ、人の罪深さを問います。

3曲のアリアは、神の憐れみを求め、想いを深める展開となります。内省的なフルートの響きに誘われ、恐れは悔恨の祈りに変わり、アンサンブルも切実な気持ちを表現します。このアリア「憐れんでください!」は、表現力の大きな曲。マタイ受難曲の同名のアリアを思い起こします。

4曲のレチタティーヴォでは、罪を認め、神に委ねることで得られる救いと安寧への解決が示されます。憐れみの祈りは、ここで弦楽器による衣をまとい、救いと主の受難を思い至り、安らかな気持ちに変化していきます。

最後の第5曲のコラールは、(翌年作曲されたマタイ受難曲での憐れみのアリアの後のコラールとしても有名なもので)、初めてソプラノからバスまでの4声と器楽全奏でわたしの悟り、受難の理解、そして神の栄光の賛美につながる信仰を歌い上げます。このコラールの定旋律は、BWV147の「主よ人の望みと喜びよ」の定旋律としても知られています。

 

 

J.S.バッハ
 J.S.Bach (1685-1750)

カンタータ 第198番 「候妃よ、さらに一条の光を」 BWV198
Lass, Fürstin, lass noch einen Strahl.
 

 この曲はBWV55の翌年1727年に作曲、ライプチッヒ大学パウロ教会で10月17日に演奏された曲で、作曲の経緯、作曲と実演の記録がとても少ないバッハの曲の中では、例外的に豊富な情報が残されている曲です。172795ザクセン選帝侯妃クリスチアーネ・エバーハルディーネ(16711727(プログラムの表紙に掲載の絵の人物)が亡くなり、その追悼式をライプチッヒの学生で貴族の出身のキルヒバッハが大学と市当局の許可を得て企画しました。歌詞は詩人ゴットシェートが作り、曲はバッハが担当して誕生してこの曲は、ライプチッヒでの最も驚くべき世俗カンタータであり、追悼の式辞を挟んだ2部構成の大曲です。

まず、ザクセン選帝侯妃クリスチアーネ・エバーハルディーネについて。彼女はブランデンブルク=バイロイト辺境伯のもとに生まれ、1693年に当時ザクセン選帝侯の弟だったアウグストと結婚。翌年、アウグストの兄が急死により、ザクセン選帝侯になり、クリスチアーネ・エバーハルディーネは候妃となりました。1697年に、アウグストは大きな領地の拡大のため、カトリックに改宗しポーランド王に即位しましたが、これに対してルター派プロテスタントを信仰してきたザクセンの国民は驚愕し悲嘆にくれ候妃もルター派信仰が深い人だったので、夫の戴冠式にも出席せず、信仰の自由を貫き、生涯夫と一線を画しました。それ以降エルベ川沿いのトルガウの城館を生活拠点とし、やがてその北にあるプレーチェの城館で亡くなるまで暮らしました。彼女の勇気ある行動は、ライプチッヒを含むルター派プロテスタントの諸国・都市の人々の信仰の象徴として愛され、尊敬されていました。

 

それでライプチッヒでの追悼の式が催されることになったわけです。当日の様子は、新聞や雑誌で報道され、市の職員であるシーゲルという人が「・・会場のパウロ教会には貴族、貴婦人やザクセン以外の国の人も参加した。オルガンによるプレリュードの後、ゴットシェート氏作詞の追悼頌歌のテキストが配られ、楽長バッハ氏がイタリア様式によって作曲した追悼音楽が、バッハ氏の弾くチェンバロとオルガン、そしてヴィオラ・ダ・ガンバ、リュート、ヴァイオリン、リコーダー、フルートなどによって演奏された・・」と記録を残しています。

 大変な労作であるこのカンタータが、候妃の追悼という1回の演奏で埋もれてしまうのを残念に思ったのか、バッハは、1731年に初演のマルコ受難曲BWV247。歌詞のみ現存。楽曲は消失)に主要な曲(第135810曲)を転用したと考えられています。また、1729年に演奏されたケーテン候レオポルトのための葬送音楽(こちらも歌詞のみ現存。楽曲は消失)にも(1727年作曲のマタイ受難曲の多くの曲とともに)第110曲が転用されています。

 

また、歌詞や初演の様子が詳しく残されている一方で、楽譜については自筆スコアが残されているのみです。音楽学者で指揮者のリフキンは、演奏上の疑問点として次の2点を指摘しています。

(1)カンタータといっても、曲は追悼の式当日以外の演奏が考えられない楽曲であり、かつ2回行われたパロディの楽譜も残されていないため、ライプチッヒのバッハのカンタータの通常の演奏形態に当てはめて良いかわからない。

(2)バッハは演奏についての最終の推敲をパート譜に期すことが多いが、パート譜が現存しないため、リュートが通奏低音に常時参加したのかどうか、スコアにはないが、先のシーゲルの記録にあるリコーダー(柔らかい笛という表現)が演奏に参加したのかどうかなどが判断できないこと。

今回私たちは、(1)については、一般の教会カンタータと同じように、1パート1名で歌い、器楽も少数で演奏します。(2)のリュートについては、スコアに記載されたものを採用し、基本は葬送音楽での笛、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リュート(音域の関係で大型リュートのテオルボを使用)の構成+通奏低音であるという考え方を採用しました。リコーダーについても、時代はギャラントな音楽の時期になっているので、横笛のフルート、オーボエ・ダ・モーレというスコアに記載されたものを採用いたしました。

1部は、合唱「侯妃よ、お願いします」で始まります。バッハの自筆で葬送音楽“Tombeau de, S.M.La Reine de Polone”と記載されているように、付点のリズムのラメント(哀歌)で始まります。6か月前に作曲されたマタイ受難曲の冒頭のTombeauにも匹敵するものと言われています。リュートと通奏低音が悲しみの足取りを進めます。

2曲の レチタティーヴォは、人々の悲嘆をソプラノが示します。弦合奏による伴奏にはため息の音型や涙のさざなみのような音型が現れます。
3曲はやさしい弦の伴奏を、ソプラノが黙りなさい!とたしなめて始まるアリアです。それを聴かず話し続ける第1ヴァイオリンの独奏的な部分は、ソロで弾いてお聴きいただくことにしています。

 第4曲は、フルートの弔いの鐘の音で始まるアルトのレチタティーヴォです。他の楽器、リュート、低音もそれぞれ少しずつ異なった音型を演奏し、弔いの鐘の不安な響きを組み上げます。
続いて第5曲のアルトのアリアは、全曲でただ1つの長調の曲です。侯妃エバーハルディーネに向けた安らかな追憶の歌を、子守歌のリズムの2本のヴィオラ・ダ・ガンバを伴ってアルトが、「心満ち足りて亡くなった、勇気のある方」と歌います。

6曲はテノールが侯妃の毅然とした死の様子をゆったりとした低音の上で語り、オーボエ・ダ・モーレの2本が哀しみの響きを加えます。
7曲は合唱による第1部の締めくくりの曲となります。器楽の間奏を挟んだ対位法を駆使したモテット様式の合唱曲が、侯妃が信徒の鏡であり、模範であることを象徴的に伝えます。

2部の始まりは、第8曲テノールアリア。歌と器楽全員で侯妃の天上の至福を賛美します。緩やかな舞曲のように下降する弦楽と低音の上に、フルート、オーボエ・ダ・モーレ、ヴィオラ・ダ・ガンバとリュートがそれぞれ特徴のある音の飾りを積み重ねます。その上にテノールは独自の語り口で賛美の言葉を重ねます。

続く第9曲はバスのレチタティーヴォ。歌唱的なアリオーソを含む変化に富んだもので、天国での侯妃の栄光の語りが、侯妃にゆかりの(当時の聴衆には馴染みのある)地名や川の名前が出てくる部分になると歌唱的なアリオーソに変化し、まるで天上からの鳥観図を見るような景色が現れます。再びレチタティーヴォに戻ると終焉の地への想いとなり、候妃の偉大さを確認します。

10曲、最終曲は、舞曲・ジーグを下敷きにした侯妃をたたえる心のこもった合唱曲です。詩人が最も言いたかった「彼女は美徳の持ち主だった、/臣下の者たちの快であり誉れであった」に至ると合唱は急にユニゾンになり、この曲全体でも際立った印象を与えます。

 

さてさて、300年近くたって、遠く離れた日本でオリジナルの追悼音楽の形での演奏がされるのを、天国のクリスチアーネ・エバーハルディーネとバッハは喜んでくれるでしょうか?

 

 

 

たくさんの拍手をいただきましたので

カンタータ 第147番より、コラール「主よ人の望みの喜びよ」をお聴きいただきます

ありがとうございました。

 

参考文献

1)礒山雅・小林義武・鳴海史生/バッハ事典(東京書籍、1996年)

2)礒山雅 /カンタータの森を歩む2「マタイ福音書」によるカンタータ(東京書籍、2006

3)礒山雅 /カンタータの森を歩む3ザクセン選帝侯家のための祝賀音楽・追悼音楽(東京書籍、2009

4)C.ヴォルフ, T.コープマン/バッハ=カンタータの世界I アルンシュタット〜ケーテン時代(東京書籍、2001

5)Durr A./The Cantata of J.S.BachOxford University Press2005

6Jones R.D. /The Creative Development of Johann Sebastian Bach: 1717-1750 (Oxford Univ Press,2013)

7)Rifkin J./ Some questions of performance in J.S.Bachs Trauerodein Bach Studies 2(Cambridge University Press,1995)

8)Dreyfus L./Bachs Continuo Group: Players and Practices in His Vocal Works(Harvard University Press,1990)

 

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